
半世紀を生きる中で、私はいくつもの不条理を見てきた。
正しいことが報われないこともあった。
不誠実な振る舞いが、何事もなかったかのように目の前を通り過ぎていく場面もあった。
そして、そのいくつかは、私自身の身にも起きた。
そのたびに、私は考え続けてきた。
この世の中における「正しさ」とは何かを、考えずにはいられなかった。
世界が本当に正しくできているのか、
正しいことが報われるのかは、私には分からない。
それでも、ひとつだけ決めていることがある。
—— 自分を裏切らずに生きることだ。
正しさが報われない現実を、私は何度も見てきた
正しいことが、正しい結果につながるとは限らない。
むしろ現実は、その逆に見える場面の方が多いのかもしれない。
誠実に向き合った人が、静かに損を引き受ける。
不誠実な振る舞いが、あたかもそれが正義であるかのように通り過ぎていく。
私はそうした光景を、決して一度や二度ではなく見てきた。
若い頃の私は、それをうまく理解できなかった。
正しさとは、いずれ報われるものだと、疑いもせずに思っていたからだ。
誰かが、どこかで見ているものなのだと。
だが、年を重ね、さまざまな出来事が私の目前を通過していく中で、
世界はそれほど単純にはできていないのだと、少しずつ分かってきた。
正しさと結果のあいだには、
ときに静かで、そして深い断絶が存在する。
その事実を、私は受け入れるしかなかった。
それでも私は、この世界を諦めたいとは思わなかった
正しさが報われない結果に終わることがある。
それは、もはや否定できない現実だ。
私はその場面を何度も経験し、
そのたびに、この世界の仕組みを理解しようとしてきた。
正しいことが正しい結果につながるとは限らない。
その事実を、私は受け入れている。
それでもなお、
正しさが報われる世界であってほしいという願いまで、
手放したいとは思わなかった。
この世界の時間は、
私たちが目にしている範囲よりも、
はるかに長いのかもしれない。
人の一生を超えたところで、
あるいは私たちの理解の及ばない秩序の中で、
調和は回復されていくのかもしれない。
そう信じたいという気持ちが、私の中にはある。
だが、それ以上に確かなことがひとつある。
世界がどう動くかは分からない。
だが、自分がどう生きるかは選ぶことができる。
自分に嘘をつかず、
胸を張って生きていける道を選びたい。
その余地が残されている限り、
私はこの世界を諦めたいとは思わなかった。
それでも私は、この問いを手放したくない
正しさが報われない現実を前にして、
私はこの問いを手放したくなったこともあった。
もし世界が不条理に満ちているのだとしたら、
誠実であることに意味はあるのだろうか。
正しくあろうとする努力は、ただ静かに損を引き受けるだけではないのか。
そんな思いが、胸をよぎらなかったわけではない。
それでも、私はこの問いを捨てることができなかった。
正しさが必ず報われるとは言い切れない。
現実は、もっと複雑で、ときに無関心ですらある。
それでも私は、
正しいことが報われる世界であってほしい、
という願いを手放したくない。
それは単なる楽観ではない。
人が人として生きるための、根源的な願いのように思えるからだ。
そしてもう一つ、確かなことがある。
自分に嘘をつかずに生きていたい、という思いである。
誠実であることは、
報われるための手段ではない。
自分が自分であるための条件なのだ。
私は、この問いをただ抱えて生きるだけではなく、
自分自身の人生を通して確かめていきたいと思っている。
正しさは本当に報われるのか。
誠実に生きることは、長い時間の中でどのような意味を持つのか。
それは、すぐに答えの出る問題ではない。
だからこそ、私は生きながら検証していきたい。
この世界の仕組みがどうなっているのか。
偶然なのか、必然なのか。
人の営みを超えた大きな流れがあるのか。
宗教や哲学、あるいは宇宙や意識について語られてきた多くの考えも、
否定するのではなく、知的好奇心をもって見つめていきたい。
信じ込むためではなく、
理解し、確かめるために。
そして最後に振り返ったとき、
誠実に生きた人生は確かに幸福だったと、静かに言えるのか。
その答えを、
自分の人生で確かめたいと思っている。
なぜ私は、誠実に生きることを手放さないのか
世界がどう動くかは分からない。
正しいことが報われるとは限らない。
それでも私が誠実さを手放さないのは、
それが最も「自分に嘘をつかずに済む生き方」だからだ。
ずる賢く立ち回ることもできる。
違うと思うことに合わせて、その場をやり過ごすこともできる。
立場や利益のために、信念を少し曲げることもできるだろう。
だが、その選択を積み重ねた先で、
私は胸を張って自分の人生を振り返ることができるだろうか。
おそらく答えは、否だ。
不誠実な選択は、外からは見えなくても、
内側に小さな重さのようなものを残す。
何かを引きずっているような感覚。
余計な思考がまとわりつく感覚。
どこか後ろめたさを抱えたまま生きている感覚。
それは、誰に責められなくても、
自分自身から自由でいられない状態なのだと思う。
誠実であることは、
誰かに評価されるためのものではない。
報われるための手段でもない。
それは、自分が自分でいるための条件であり、
あとで自分自身を裏切ったと感じないための基準である。
そしてもうひとつ、
誠実に生きると決めたとき、人は静かな自由を得る。
周囲の思惑や損得の計算に縛られず、
自分が正しいと思うことを、そのまま選ぶことができるからだ。
この自由は、派手ではない。
だが確かで、揺るがない。
ただし、この感覚は、
不誠実であっても何の重さも感じない人には、
もしかすると理解しにくいものかもしれない。
それでも私は、
この静かな自由を手放したくない。
私の人生は、この問いを確かめる旅になる
正しさが報われるのか、
すべての物事が最終的に本質的に正しいことに帰結するのか。
私はまだ断言することができない。
現実はときに不条理に見え、
誠実さが結果に結びつかない場面も確かに存在する。
そして私は、実際にそのような経験をしてきた。
それでも私は、目をそらさずに生きていきたいと思っている。
同時に、もうひとつの願いを手放したくない。
この世界は本来、
誠実さや思いやり、やさしさが報われる方向へと向かうものであってほしい、
という願いだ。
それが事実なのかどうか。
長い年月の中で、この世の中がそのようにできているのか。
私にはまだ分からない。
だが私は、自分の人生を通して、それを確かめていきたい。
正しさが勝つと証明したいのではない。
世界の仕組みを説明したいわけでもない。
ただ、自分が誠実に生きた人生が、
充実し、自分自身が納得できるものであったのかどうかを確かめたいのだ。
宇宙の意思や、見えない秩序、
あるいは人知を超えた大きな流れのようなものが存在するのか。
そうしたことにも、私は知的な好奇心を持っている。
信じ切るのでも、否定するのでもなく、
自分の人生を通して静かに観察し、検証していきたいと思っている。
この問いに答えが出る日が来るのかは分からない。
それでも、この問いを抱き、
検証し、確かめながら生きていくこと自体が、
私の人生を形づくっていくのだと思う。
最後に「ああ、楽しかった」と言って死にたい
人の人生は、ひとつの物語のようなものなのかもしれない。
何も起こらない平坦な物語は、
きっと心に残らない。
困難や不条理に直面することもある。
理不尽な出来事に傷つくこともある。
思い通りにならない現実に立ち尽くすこともある。
それでも、その中で自分の意思を貫き、
自分を裏切らずに生き切ることができたなら、
その人生は深い充実を宿すのではないだろうか。
結末が世間的な成功であるかどうかは、
もしかすると本質ではない。
大切なのは、
自分の人生を生き切ったと感じられるかどうか。
納得の中で幕を閉じられるかどうかだ。
人は最後の瞬間に、
自分の人生を静かに振り返るのだと思う。
そのとき私は、
誇らしい実績を並べたいわけではない。
誰かに勝った証を残したいわけでもない。
ただ静かに、こう言えたらいい。
—— ああ、楽しかった。
不条理も、迷いも、葛藤も含めて、
すべてがこの人生を形づくっていたのだと
受け入れられるなら、
その人生はきっと満ち足りたものになっている。
だから私は今日も、
自分を裏切らずに生きていきたい。
その積み重ねの先に、
静かな満足が待っていると信じて。
それが、私が人生をかけて守りたい生き方である。
この理念に至るまでの思考については、
次の記事でも触れています。



























































































































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