【英字新聞を読む】マンガ家の藤子不二雄Aさんが88歳でお亡くなりになりました

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「怪物くん」などの作品で知られる藤子不二雄Aさんが、昨日お亡くなりになりました。

享年88歳。

いろんな、マンガを世に提供した漫画家さんです。

トキワ荘に集まっていた漫画家さんも、これでみんなお亡くなりになったのではないでしょうか?

今日は、この話題を取り上げようと思います。

まずは記事全体を読んでみたいと思います。

Mangaka Fujiko Fujio A dies at 88
Mangaka Fujiko Fujio A, known for “Obake no Q-Taro,” “Ninja Hattori-kun” and various other popular works, has died at his home in Kawasaki, sources said Thursday. He was 88.
「オバケのQ太郎」や「忍者ハットリくん」などの人気作品で知られるマンガ家藤子不二雄Aが、川崎の自宅で亡くなったと、情報筋は木曜日に語った。彼は88歳でした。

Born in Toyama Prefecture, his real name was Motoo Abiko. He adored Osamu Tezuka and aspired to become a mangaka. He teamed up with childhood friend Hiroshi Fujimoto, and they made their professional debut in 1951.
富山県生まれで、本名は安孫子素雄です。手塚治虫を愛し、漫画家を志した。幼なじみの藤本弘と組んで、1951年にプロデビューをしました。

After a stint working at a local newspaper, Abiko came to Tokyo and began living in Tokiwaso, an apartment house where many young mangaka gathered. In 1964, he and Fujimoto started the serialization of “Obake no Q-Taro” in the Shonen Sunday manga magazine under the shared pen name of Fujiko Fujio.
地元の新聞社で働いた後、安孫子は東京に来て、若い漫画家がたくさん集まったアパートのトキワ荘に住み始めました。 1964年、彼と藤本は少年サンデーの漫画雑誌「藤子不二雄」の共有ペンネームで「オバケのQ太郎」の連載を開始した。

The two then started dividing the Fujiko works. While Fujimoto focused on manga for children, Abiko took on a wider range of works, from children’s manga to works with a horror touch for adult readers.
その後、ふたりは藤子の作品を分割し始めた。藤本は子供向けの漫画に焦点を当てていましたが、安孫子は子供向けの漫画から大人の読者向けのホラータッチの作品まで、幅広い作品を手がけました。

The team officially split up in the late 1980s, and Abiko made a fresh start under the name Fujiko Fujio A. In 2005, he received the Education, Culture, Sports, Science and Technology Minister award from the Japan Cartoonists Association for his body of work.
チームは1980年代後半に正式に解散し、藤子不二雄Aという名前で新たなスタートを切りました。2005年には、彼の一連の作品に対して日本漫画家協会から文部科学大臣賞を受賞しました。

では、1文ずつ文章を細かく見ていこうと思います。

Mangaka Fujiko Fujio A, known for “Obake no Q-Taro,” “Ninja Hattori-kun” and various other popular works, has died at his home in Kawasaki, sources said Thursday. He was 88.
「オバケのQ太郎」や「忍者ハットリくん」などの人気作品で知られるマンガ家藤子不二雄Aが、川崎の自宅で亡くなったと、情報筋は木曜日に語った。彼は88歳でした。

「オバケのQ太郎」や「忍者ハットリくん」などの人気作品(various other popular works)知られる(known for)藤子不二雄Aが、川崎の自宅でなくなった(has died at his home)と、情報筋は木曜日に語った。彼は88歳でした。

子供向けの人気漫画で知られる藤子不二雄Aさんが昨日お亡くなりになりました。

88歳でした。

藤子不二雄Aさんは、「オバケのQ太郎」や「忍者ハットリくん」などで知られています。

“various other popular works”で「~などの人気作品」と訳しています

“various”は「様々な」という意味の形容詞。”popular”は「人気のある」という形容詞です。

Born in Toyama Prefecture, his real name was Motoo Abiko. He adored Osamu Tezuka and aspired to become a mangaka. He teamed up with childhood friend Hiroshi Fujimoto, and they made their professional debut in 1951.
富山県生まれで、本名は安孫子素雄です。手塚治虫を愛し、漫画家を志した。幼なじみの藤本弘と組んで、1951年にプロデビューをしました。

富山県生まれで、本名は安孫子素雄です(his real name was Motoo Abiko)。手塚治虫を愛し(adored)漫画家を志しました(aspired to become a mangaka)

幼なじみ(childhood friend)の藤本弘と組んで、1951年にプロデビューをした。

藤子不二雄Aさんの本名は安孫子素雄さん。

手塚治虫の作品を愛していて、漫画家を志して、幼なじみの藤本弘さんとチームを組んでプロデビューした。

それは1951年のことでした。

“adored Osamu Tezuka”で「手塚治虫を愛し」と訳しています

“adore”は「熱愛する、敬愛する」という意味。

“aspired to become a mangaka”で「漫画家を志した」と訳しています

“aspire”は「熱望する、切望する、志向する」というような意味です。

After a stint working at a local newspaper, Abiko came to Tokyo and began living in Tokiwaso, an apartment house where many young mangaka gathered. In 1964, he and Fujimoto started the serialization of “Obake no Q-Taro” in the Shonen Sunday manga magazine under the shared pen name of Fujiko Fujio.
地元の新聞社で働いた後、安孫子は東京に来て、若い漫画家がたくさん集まったアパートのトキワ荘に住み始めました。 1964年、彼と藤本は少年サンデーの漫画雑誌「藤子不二雄」の共有ペンネームで「オバケのQ太郎」の連載を開始した。

地元の新聞社で働いた後、安孫子は東京に来て、若い漫画家がたくさん集まった(many young mangaka gathered)アパートのトキワ荘に住み始めました。

1964年、彼と藤本は少年サンデーのマンガ雑誌に「藤子不二雄」の共有ペンネーム(shared pen name)で「オバケのQ太郎」の連載を開始した(started the serialization)

藤子不二雄Aさんは、地元富山の新聞社で働いた後、東京に出てきた。

そして、若い漫画家が集まったアパートで有名なトキワ荘に住み始めた。

トキワ荘には藤子不二雄のほかに赤塚不二夫石森章太郎などが住んでいました。

“started the serialization”で「連載を開始した」と訳しています

“serialization”は「連載、連続ドラマ化、順番に並べること」という意味があります。

The two then started dividing the Fujiko works. While Fujimoto focused on manga for children, Abiko took on a wider range of works, from children’s manga to works with a horror touch for adult readers.
その後、ふたりは藤子の作品を分割し始めた。藤本は子供向けの漫画に焦点を当てていましたが、安孫子は子供向けの漫画から大人の読者向けのホラータッチの作品まで、幅広い作品を手がけました。

その後、2人は藤子の作品を分割し始めました(started dividing the Fujiko works)

藤本は子供向けのマンガに焦点を当てていました(focused on manga for children)が、安孫子は子供向けのマンガから大人の読者向けのホラータッチの作品まで幅広い作品を手掛けた(took on a wider range of works)

藤本さんと安孫子さんは2人の作品を分割し始めました。

このころに、「ドラえもん」は藤本さんが、「忍者ハットリくん」は安孫子さんが実は書いていたんだと分かったという記憶があります。

解散した理由には、いろんな憶測もあるようです

藤本は子供向けのマンガに焦点を当て、安孫子は「笑ゥせぇるすまん」にもあるような、大人向けのマンガまで書いていました。

“took on a wider range of works”で「幅広い作品を手掛けた」と表現しています。

“take”には「取る」という意味のほかに「仕事を引き受ける」というような意味もあります。

The team officially split up in the late 1980s, and Abiko made a fresh start under the name Fujiko Fujio A. In 2005, he received the Education, Culture, Sports, Science and Technology Minister award from the Japan Cartoonists Association for his body of work.
チームは1980年代後半に正式に解散し、藤子不二雄Aという名前で新たなスタートを切りました。2005年には、日本漫画家協会から教育文化スポーツ科学技術大臣賞を受賞しました。

チームは1980年代後半に正式に解散し(officially split up in the late 1980’s)、藤子不二雄Aという名前で新たなスタートを切りました(made a fresh start)

2005年には、彼の一連の作品に対して(for his body of work)日本漫画家協会から文部科学大臣賞を受賞しました(received)

藤子不二雄は1987年に正式に解散しました。

そして、安孫子さんは、藤子不二雄Aとして新たなスタートを切った。

一方で、藤本さんは藤子・F・不二雄としてマンガを描き続けました。

藤子・F・不二雄さんは、1996年に62歳でお亡くなりになっています。

安孫子さんは、2005年には文部科学大臣賞を受賞。

そして、昨日、川崎市の自宅で88歳でお亡くなりになりました。

“for his body of work”で「彼の一連の作品に対して」という表現をしています。

“body of work”で「一連の作品」という意味。

今日は、藤子不二雄Aさんがお亡くなりになったという話題を取り上げました。

今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

こうぷー

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