人生が正しくできているとは思えない。それでも私が手放さない視点

正しさがすぐに報われない世界でも、手放さない視点を表現した静かな海と空の風景 人生、生きかた

正しさがすぐに報われない世界でも、手放さない視点を表現した静かな海と空の風景

この文章は、仕事・トレード・人生の挫折を通じて、
「正しさは本当に報われるのか」を考え続けてきた記録です。

人生は、正しく生きれば報われるようにはできていません。
誠実に考え、合理的に判断し、丁寧に積み重ねても、
結果だけを見れば、うまくいかなかったように見えることがある。

正しいことを言っているつもりなのに、理解されない。
間違っていないはずなのに、すぐには通らない。
そんな場面に、これまで何度も出会ってきました。

世界は、必ずしも
「正しさ」がそのまま反映される場所ではありません。
むしろ、別の意図や事情、力関係やタイミングによって、
判断が歪められることのほうが多いのかもしれない。

それでも人は、
世界がどうなっているのか分からないまま、
「どう生きるか」だけは選び続けてしまいます。

この文章は、
人生が正しくできていると証明するためのものではありません。
また、希望を語るためのものでもありません。

ただ私は、
この世界の不確かさを引き受けたうえで、
どこに視点を置いて生きているのかを、
一度、言葉にしてみたいと思いました。

人生が「正しくできている」と思えなくなった瞬間(仕事・トレード・裁判で感じた違和感)

仕事では、
最終的にお客様にとって一番良い運用方法を考えることが、
もっとも本質的な判断だと思っていました。

そのために、
どう考えるのが合理的か、
どのように協力すれば全体として良くなるかを重視し、
できるだけ丁寧に言葉を尽くしてきたつもりです。

ところが実際には、
その考え方がすぐに理解されるとは限りませんでした。
個人や組織のメンツ、立場、
そもそも前提となる考え方の違いによって、
「正しいかどうか」とは別の理由で、話が通らないことがある。

正しいことを言っているかどうかよりも、
誰が言ったのか、
どのタイミングなのか、
その場の空気や力関係のほうが、
結果を左右しているように見える場面もありました。

トレードでも、似た感覚を何度も味わいました。
価格は最終的には需給に基づいて決まる。
その前提自体が崩れることはありません。

けれど、実際の相場は、
トレンドやテクニカル、
大量の資金を持つ金融機関の意図、
いわばマネーゲームのような動きに、
長いあいだ振り回されます。

本質的な需給に帰結するまでには、
時間がかかる。
その過程は、決してフェアとも合理的とも言えない。
それが、トレードという世界の現実でした。

さらに、
正しい事実に基づいて判断されるはずの場においても、
「正しさ」がそのまま評価されるとは限らない、
という経験をしました。

事実が確認されていても、
それが問題として扱われるかどうかは、
必ずしも別の話になる。
私はその現実を、
ある裁判の経験を通じて、強く意識するようになりました。

こうした経験を重ねるうちに、
世の中は、
正しいことが直ちに反映されるようには
できていないのだと、はっきり感じるようになりました。

少なくとも、
正しいことであっても、
理解されるまでには時間がかかる。
違う考えを持つ人や、
別の意図で動く組織、
力関係や状況によって、
結果には必ずタイムラグが生じる。

それが、この世界の現実なのだと思います。

この現実を前提にしたとき、
「正しい方法」を選んでいるはずなのに、
人生が動かないと感じることがあります。

それでも、世界を完全に否定しきれなかった理由(正しさと因果応報を手放せなかった理由)

正しいことが、すぐには通らない。
むしろ、通らないことのほうが多い。
そうした現実を、何度も経験してきました。

だからといって、
世界はまったく意味のない場所だと、
割り切ってしまうこともできなかった。

「どうせ正しさなんて関係ない」
「結局は力や運で決まる」

そう言い切ってしまえば、
気持ちが楽になるというより、
この世界そのものを、完全に諦めてしまったかもしれない
という感覚のほうが近い。

けれど、その見方を選んだとき、
自分の中に、どこか引っかかる感覚が残りました。
納得しているというより、
諦めているだけではないか、という違和感です。

トレードの世界では、
最終的に価格は需給に帰結します。
そこに至るまでの過程がどれだけ歪んで見えても、
本質そのものが消えてしまうわけではありません。

時間がかかる。
遠回りをさせられる。
ときには、理不尽に振り回される。
それでも、最後に辿り着く場所は、
完全にランダムではない。

この感覚は、
仕事や人との関係について考えるときにも、
どこかで重なっていました。

正しさは、
否定されることはあっても、
消滅するわけではない。
理解されない時間が続くことはあっても、
無意味になるわけではない。

そう考えるようになったとき、
世界を「信じる」でもなく、
「見限る」でもない、
中間の立ち位置があるように感じました。

この「中間の立ち位置」は、
気合や前向きさでは保てません。

因果応報という言葉を、
単純な法則として信じているわけではありません。
善いことをすれば必ず報われ、
悪いことをすれば必ず裁かれる、
そんな分かりやすい世界だとも思っていません。

それでも、
徳を積むように生きることに、
意味があってほしいとは思っています。

それは、
世界がそうできていると信じたいからではなく、
そう信じるほうが、
自分がこの人生を納得して生き切れると感じるからです。

私が「結果」ではなく「視点」を手放さなかった理由(人生の判断軸について)

世界がどう動くかは、
自分ではコントロールできません。

正しさがいつ評価されるのか。
評価されること自体があるのか。
それがどんな形で返ってくるのか。
そのすべては、こちらの思惑の外にあります。

それでも、
どこに視点を置いて生きるかだけは、
自分で選べるのだと感じるようになりました。

結果を基準にして生きると、
世界の動きに振り回され続けます。
評価されなければ意味がなくなり、
報われなければ間違いだったことになる。

けれど、
視点を基準にして生きるという選択もある。

正しいことが、
すぐに通らない世界であることは分かっている。
それでも、
自分が納得できる基準を、
結果の外側に置いておく。

では、その「視点」は、
日常の選択でどう使われるのか。

徳を積めば必ず良いことが返ってくる、
そう単純には思っていません。
因果応報が、
必ず目に見える形で現れるとも限らない。

それでも私は、
本質的に正しいことに、
最終的には帰結していく世界であってほしい
と願っています。

それは世界への期待というより、
この人生を、
自分の足で歩き切るために選んだ視点です。

信仰でも、思想でもありません。
証明しようとも思っていません。

ただ、
この視点を手放してしまったら、
どんな結果を得ても、
自分の人生に納得できなくなる。

そう感じているだけです。

この視点は、正しいのか

ここまで書いてきたことが、正しいのかどうかは分かりません。
誰にでも当てはまる考え方ではないでしょうし、他人に勧めたいとも思っていません。

世界が本当に、本質的に正しいことへ帰結するようにできているのかどうか。
それを証明する術はありません。

それでも私は、そうであってほしいと思っています。
正しさが、時間をかけてでも、どこかで意味を持つ世界であってほしい。
そう願い、そう信じるほうが、私はこの人生を納得して生き切れると感じるからです。

それは世界を美化するための考え方ではありません。
希望を語るためでもありません。
世界を完全に諦めてしまわないために、私が選んでいる視点です。


結びにかえて

世界がどうなっているのかは、結局のところ分かりません。
正しいことがいつ報われるのか。そもそも報われることがあるのか。
それも分かりません。

それでも人は、どこに視点を置いて生きるかだけは選び続けています。
結果を基準に生きるのか。
それとも、自分が納得できる視点を手放さずに生きるのか。

この文章は、どちらが正しいかを決めるためのものではありません。

ただ、あなたがどこに視点を置いて生きているのかを、一度立ち止まって考えるきっかけになったなら。
それで十分だと思っています。

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