世界がどうなっているかは分からない。それでも私が誠実に生きたい理由

誠実に生きる理由を静かに考える人物の後ろ姿 人生、生きかた

誠実に生きる理由を静かに考える人物の後ろ姿

世界は、正しい者がちゃんと報われるようにできているのか。

正直に言えば、私にはもう分からない。

誠実に生きても報われないことがある。
不誠実な人が、何事もなかったように得をする場面もある。

それでも私は、
「だからずる賢く生きる」という結論には行かなかった。
というより、そうは出来なかった。

この記事は、世界の仕組みを説明するためのものではない。
それでも自分は、どんな姿勢で生きたいのか。
この世界が、どうであってほしいのか。
そのための、私自身の整理の記録だ。


世界は本当に「正しくできている」のか

「正しいことをしていれば、いずれ報われる」
「努力はどこかで評価される」

世の中には、そうした言葉が当たり前のようにある。
私自身も、長い間、どこかでそれを信じていたと思う。

けれど現実を見ていると、世界は必ずしもそんなふうにできていない。

誠実に向き合った結果、立場が悪くなることがある。
正直に話したことで、損をすることがある。
一方で、責任を回避したり、都合よく振る舞ったりする人が、特に問題にもされずに通っていく場面もある。

私は実際に、
「ちゃんとやったはずなのに」
「何の説明もないまま扱いが変わる」
そういう出来事を経験してきた。

だから「世界は正しくできている」と胸を張って言うことは、私にはもう出来ない。

ただ、ここで誤解されたくないのは、
世界は完全に不公平で、絶望するしかない――と断じたいわけでもない、ということだ。

言えるのはひとつだけ。
善悪や誠実さが、自動的に結果へ結びつく仕組みではない。
世界は、思っていたより複雑で、思っていたより無関心だ。


それでも人は「報われる世界」を願ってしまう

それでも人は、どこかで「報われる世界」を願ってしまう。

良いことをした人には、良い結果が返ってくる。
悪いことをした人には、相応の報いがある。
そうであってほしいと、自然に思ってしまう。

それは綺麗事というより、社会の中で生きていくための最低限の安心感なのだと思う。
もし「何をしても同じ」「誠実さには意味がない」と本気で思ってしまったら、人は簡単に壊れてしまう。

だからこそ、宗教や道徳や教育や物語は、昔から繰り返し「報われる」という形を語ってきたのだろう。

私自身も、心のどこかでそれを探していた。

おてんとうさまでも、神さまでも、仏様でも、宇宙でもいい。
誰かがどこかで、ちゃんと見ていてくれる。
誠実に生きた人間のことを、見落とさずにいてくれる。

そんな超越した存在が、本当にいないのか。
そう問いかけずにはいられなかった。


私は因果応報を「世界の法則」だとは思っていない

今の私は、因果応報を「世界の法則」だとは思っていない。

良い行いをしたから良い結果が出る。
悪い行いをしたから悪い結果になる。
現実は、そこまで分かりやすく動いていない。

不誠実な人が得をすることもある。
誠実であった人が、何も残らず終わることもある。

ここで重要なのは、
「だから世界は終わっている」と言い切ることでも、
「いや、いつか必ず正義は勝つ」と言い張ることでもない。

私はただ、世界の仕組みを断定することをやめた。
分からないものは、分からないままにした。

その代わりに、意識を戻した。
世界ではなく、自分に。
他人ではなく、自分の振る舞いに。


それでも私が誠実さを“行動の軸”にしている理由

世界が正しくできているかどうかは分からない。
因果応報が本当に働いているかどうかも分からない。

それでも私は、誠実であることを、行動の軸にすることをやめなかった。

理由はシンプルだ。
それが一番「自分をごまかさずに済む」生き方だったから。

ずる賢く立ち回ることも出来たと思う。
目をつぶって、合わせて、流れに身を任せることも出来たと思う。

でも、そうした生き方を選んだ自分を、私はきっと後から尊敬できない。
むしろ、じわじわ自分を嫌いになっていく気がした。

誠実さは、報われるための手段ではなくなった。
自分が自分でいるための条件になった。
言い換えるなら、「あとで自分を嫌いにならないための基準」だ。

きれいな答えは、正直持っていない。
それでも、ここだけは手放したくなかった。


「徳を積めばいいことがある」と期待しない

ここで少し、はっきりさせておきたいことがある。

私は、「徳を積めばいいことがある」と期待しない。
誠実でいることを、見返りと交換しない。

なぜなら、期待した瞬間に、誠実さは取引になるからだ。

「これだけやったんだから、報われるはずだ」
「正しいことをしたんだから、相手が変わるはずだ」

そう思った瞬間、世界がその通りに動かなかったときに、私は誠実さごと傷ついてしまう。
その痛みは、かなり深い。

だから私は、ここを切り分けることにした。

  • 世界がどう動くかは、世界の問題
  • 自分がどう振る舞うかは、自分の問題

誠実さは、結果の保証ではない。
でも、姿勢の選択ではある。


信じることで実際に起きた、現実的な変化

「誠実に生きる」と決めても、世界が急に優しくなるわけではない。
理不尽が消えるわけでもない。

それでも、現実的に変わったことがある。

まず、判断がぶれにくくなった。
目先の得損だけで行動すると、後で必ず自分の中に“しこり”が残る。
それを経験的に理解してから、行動の基準が一本になった。

次に、人間関係の質が変わった。
全員に好かれるわけではない。むしろ合わない人も増える。
でも、合う人とは深くつながれる。
「この人の前では取り繕わなくていい」と思える関係が残る。

そして何より、自分の回復が早くなった。
落ち込むことはある。虚しくなることもある。
でも「自分まで卑屈にならなくていい」と思えると、戻って来られる。

派手な奇跡ではない。
ただ、現実の手触りとして、確かに起きた変化だ。


この考え方が向いている人/向いていない人

この考え方は、向き不向きがあると思う。

向いているのは、たとえばこういう人だ。

  • 世界を断定したくないが、冷笑にも行きたくない人
  • 他人を裁くより、自分の軸を整えたい人
  • 「見返りがなくても守りたいもの」がある人
  • しんどい経験を、雑に美談化したくない人

逆に、向いていないのはこういう人かもしれない。

  • すぐに“答え”や“結論”が欲しい人
  • 誠実さを「成功の技術」として使いたい人
  • 正義が必ず勝つ、という確信を強く求める人

どちらが正しい、という話ではない。
ただ、この記事は「世界の攻略法」ではなく、
「自分の姿勢の決め方」を書いている。


まとめ:世界の説明ではなく、自分の姿勢として

世界がどうなっているかは分からない。
正しい者が必ず報われる、とも言い切れない。

それでも私は、誠実でありたい。

それは、世界を変えるためというより、
自分が自分でいるためだ。
あとで自分を嫌いにならないためだ。

徳を積めばいいことがある、と期待しない。
それでも、誠実さを手放さない。

世界の説明ではなく、
自分の姿勢として。

私は、そういうふうに生きたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました