
正しいことをしていれば、いつかは報われる。
多くの人が、そう信じたことがあるのではないだろうか。
誠実に生きること。
徳を積むこと。
人を不必要に傷つけないこと。
目先の損得だけで判断しないこと。
自分だけが得をすることばかり考えないこと。
そうした姿勢は、遠回りに見えることがあっても、やがてどこかで意味を持つ——
誰かが見ていたり、大きな何かが見ていてくれて、きちんと報いてくれる。
私は、そう考えてきた。
けれど現実の世界を見渡すと、その確信はときどき揺らぐ。
不誠実に見える振る舞いが、何事もなかったかのように受け入れられる場面がある。
要領よく立ち回る人が評価され、誠実に向き合う人ほど静かに消耗していくように見えることもある。
正しさは、本当に報われるのだろうか。
それとも私たちは、ただそう信じたいだけなのだろうか。
もし人生が短い時間だけで完結するのなら、この問いに希望を見出すのは難しいのかもしれない。
すぐに結果が出ることばかりが、本質とは限らない。
むしろ本当に大切なものほど、目に見える形になるまでに時間がかかることがある。
信頼。
人格。
人との関係。
そして、生き方そのものも。
私は、「すべての物事は本質的に正しいところへ帰結するのか」という問いを、どこかで持ち続けながら生きている。
それが真実なのかどうか、まだ分からない。
だからこそ私は、それを自分の人生の中で確かめてみたいと思っている。
正しさは、すぐには報われないかもしれない。
ときに、理不尽さの中に置き去りにされるように見えることもある。
それでもなお、長い時間の中で人生を見つめたとき、そこには別の景色が広がっているのではないだろうか。
今日は、そのことについて静かに考えてみたい。
正しさが報われないように見える瞬間は、確かに存在する
人生において、正しさが報われないように見える瞬間は、幾度となく存在する。
長く生きていれば、誰もがしばしば感じるのではないだろうか。
「正しさは、本当に意味があるのだろうか」と。
誠実に向き合ったはずなのに、状況が好転しないことがある。
筋を通したことで、かえって不利な立場に置かれることもある。
不合理だと分かっていながら、それを受け入れざるを得ない場面に立つこともある。
一方で、要領よく立ち回る人が評価され、
責任を曖昧にして上手に取り繕った人が何事もなかったかのようにその場を通り過ぎていく——
そんな光景を目にすることも、決して珍しくない。
もし人生を短い区間だけで切り取るのなら、
正しさはとても非効率な選択に見えるのかもしれない。
遠回りに見える。
損をしているようにも見える。
ときに、報われないどころか、理不尽さの中に取り残されているようにさえ感じる。
最終的に理不尽なままに終わってしまうこともある。
だからこそ人は、どこかで考えてしまう。
正しさよりも、うまく生きることを優先した方が結果的にいいのではないか、と。
けれど私は、この問いに簡単な結論を与えたいわけではない。
私の今までの経験から、「正しさは必ず報われる」と断言することもできないし、
逆に「正しさには意味がない」と言い切ってしまうことには、抵抗がある。
ただ一つ、確かに言えることがある。
それは——
正しさを手放したとき、人の内側には必ず静かな違和感が残るはずだ、ということだ。
正しさと孤独の関係については、こちらの記事でも静かに掘り下げています。
▶︎「正しさは、なぜ人を孤独にするのか——それでも私は、この生き方を選びたい」
誰に気づかれるわけでもない。
責められるわけでもない。
それでも、自分だけは知っている。
本当は違うと思っていたということ。
本当は間違っているのかもしれないと思っていたということ。
目をそらした瞬間があったこと。
自分の感覚よりも、その場の流れを優先したこと。
その小さな感覚は、すぐに痛みになるわけではない。
けれど気づかないうちに、心の輪郭を少しずつ曖昧にしていく。
だから私は思う。
正しさとは、外側の結果だけによって測られるものだけではないのではないか、と。
たとえすぐに報われなかったとしても、
自分の内側が、自分にとって正しいと思われることを選択したことによって、静かに保たれていること。
もしかすると、それ自体がすでに一つの帰結なのかもしれない。
けれど——
もしそれが本当だとしても、もう一つ残る問いがある。
なぜ私たちは、それでもなお「報われること」をどこかで願ってしまうのだろうか。
次は、そのことについて考えてみたい。
なぜ私たちは、それでも「報われること」を願ってしまうのか
正しさがすぐに報われるとは限らない。
むしろ現実には、その逆に見える場面さえある。
結果的に報われずに終わってしまったように見えることもある。
それでもなお、私たちはどこかで願ってしまう。
——正しく生きたことには、意味があってほしい、と。
正しく生きたことには、それに見合った報いがあってほしい、と。
この感覚は、単なる期待や楽観ではないように思う。
人は本能的に、
「世界は完全に不条理ではないはずだ」と信じたい生き物なのではないだろうか。
もし誠実さに意味がなく、
徳も、思いやりも、節度も、何ひとつ良い結果に帰結しないのだとしたら——
私たちは何を拠り所にして生きればいいのだろう。
何を信じて、明日の選択をすればいいのだろう。
だから人は、結果が見えないときでさえ、
どこかで「長い時間の中では何かが戻ってくるはずだ」と感じようとする。
それは、打算とは少し違う。
見返りを求めているというより、
自分が選んできた生き方が、この世界のどこかで、より大きな幸せとつながっていてほしいと願っているのだと思う。
おそらく私たちは、
「世界は純粋な損得だけで動くものではない」と感じられるからこそ、生きていける。
小さな誠実さが信頼を生み、
いくつもの信頼がよい関係の輪を育て、
そのよい関係の輪が人生を支えていく。
私が「誠実に生きること」をなぜ選び続けているのかは、こちらの記事でも書いています。
▶︎「世界がどうなっているかは分からない。それでも私が誠実に生きたい理由」
そうした連なりを、私たちは経験的に知っている。
もちろん、それがいつも目に見える形で返ってくるわけではない。
理不尽に見える出来事はいくつも起こる。
納得のいかない結果に向き合うこともある。
それでもなお、どこかで感じている。
もし人生を一本の長い線として眺めることができたなら——
今は意味が分からない、納得できない出来事も、
後になって別の場所につながっていることに気づくのかもしれない。
だから私は、「正しさが必ず報われる」と言い切ることはできない。
けれど同時に、こうも思っている。
本質的に正しいものは、
長い時間の中で静かに帰結していくのではないか、と。
それが真実かどうかは、まだ分からない。
だからこそ私は、その問いを手放さずに生きていきたいと思っている。
そしておそらく、この問いを持ち続けること自体が、
すでに一つの生き方なのだと思う。
それでも私は、この生き方を選びたい
正しさがいつも報われるかどうか——
その問いに、私はまだ答えを持っていない。
その答えはこれから先の人生で、確かめていくしかないのだと思う。
けれど、不確かだからといって、
どんな生き方をしても同じだとは思えない。
もし世界が本当に不条理で、
誠実さも徳も何ひとつ意味を持たないのだとしたら、
正しさを大切にして生きることは、ただの遠回り、あるいは余計な思い込みなのかもしれない。
それでもなお、私は思う。
自分を裏切るような生き方だけは、したくない。
要領よく立ち回ることよりも、
その場をうまくやり過ごすことよりも、
自分の内側で「これでいい、これが正しい」と思える選択を重ねていきたい。
それは、強さからではない。
ただ、その方が静かに生きていける気がするからだ。
その方が、自分らしく生きていると思えるからだ。
外側の結果がどうであれ、
自分の感覚から遠ざかりすぎずにいられること。
それだけは、手放したくないと思っている。
正しさが報われるかどうかは分からない。
けれど、自分を裏切ったときに残る感覚だけは、想像できる。
あのとき、本当は違うと思っていたのに——
その感覚と一緒に生き続けることの方が、私には重く、苦しい。
だから私は、結果を保証された生き方ではなく、
自分が納得できる生き方を選びたい。
それは決して、立派な生き方ではない。
むしろ、ときに不器用に見えるかもしれない。
遠回りになることもあるだろう。
理解されない瞬間もあるかもしれない。
それでもいいと思っている。
人生の終わりに振り返ったとき、
「うまく生きたかどうか」よりも、
「自分を裏切らずに生きられたか」を静かに確かめたい。
そしてもし、その答えが「はい」だったなら——
それだけで、この人生には十分な意味があったと思える気がする。
そして私は、きっとこう思うのだろう。
「ああ、楽しかった」と。
人の心に、良いひっかき傷を残すように生きたい
私は、立派だと言われる人になりたいわけではない。
誰かに評価されるための人生を送りたいわけでもない。
ただ、自分を裏切らずに生きていきたいと思っている。
その先に、もしひとつ願いがあるとするなら——
自分の行為や言動が、誰かの心の中に小さな良い思い出の跡を残せていたらうれしい、ということだ。
それは、大きな出来事である必要はない。
道に迷っている人に声をかけたこと。
何気なく交わした言葉。
相手のことを思って選んだ、ほんの小さな行動。
もしかすると、その多くはすぐに忘れられてしまうのだろう。
けれど人の記憶の奥には、ときどき説明のつかない形で残り続けるものがある。
ふと思い出したとき、少しだけ心が温かくなる。
「あのとき、あんな人がいたな」と思い出す。
そんな良い思い出の痕跡のようなものを、私は「良いひっかき傷」と呼びたい。
それは意図して残すものではない。
自分を偽らずに生きようとした結果として、静かに誰かの心に触れていくものなのだと思う。
だから私は、特別なことをしようとは思わない。
ただ、そのときどきの自分が「こちらがいい」と感じる方を選んでいきたい。
人を不必要に傷つけないこと。
不誠実にならないこと。
自分の感覚から目をそらさないこと。
そして、できるなら——
人がよろこんでくれると思えることを選ぶこと。
その積み重ねの先に、もし誰かの心に小さなしあわせの跡が残るのだとしたら、
それだけで十分だと思える。
そしてきっと、人はそうした見えない痕跡に囲まれながら生きている。
私もこれまで、いろんな人が残してくれた、しあわせの良いひっかき傷を抱えたまま生きている。
これまで出会ってきた人たちの言葉や優しさに、知らないうちに支えられてきたように。
自分もまた、誰かの記憶の片隅に、わずかな温度を残しているのかもしれない。
人生の終わりに、それを確かめることはできないだろう。
けれどもし振り返ったとき、物理的ではなく、精神的に誰かのしあわせに囲まれている感覚があったなら——
私はきっと、こう思う。
「ああ、いい人生だった」と。
波乱万丈だったとしても、それでいい。
むしろその方が、人の心に触れる瞬間は多いのかもしれない。
すべての物事が本質的に正しいところへ帰結するのかどうか、私にはまだ分からない。
だからこそ私は、それを確かめるように生きていきたい。
自分を裏切らずに生きること。
その結果として、人の心に良いひっかき傷が残るように生きること。
もしそんな人生を歩めたのなら——
それはきっと、私にとって納得のいく人生なのだと思う。



























































































































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