正しさは、なぜ人を孤独にするのか——それでも私は、この生き方を選びたい

静かな湖を前に桟橋に立ち、遠くを見つめる一人の人物 人生、生きかた

静かな湖を前に桟橋に立ち、遠くを見つめる一人の人物

正しいことをしたい、と思っている。
でもその「正しさ」は、立派な人になりたいとか、窮屈に規則を守りたいとか、そういうことではない。

それでも、正しいと思う方を選ぶ瞬間がある。
誰かを傷つけないように言葉を選ぶ。
見ないふりをしない。
自分の中で「これは違う」と感じたことを、そのままにしない。

ただ、その選択を重ねていくと、ときどき不思議な感覚が残る。
周囲と同じように笑っているのに、どこか距離がある。
一緒にいるのに、同じ場所にいない感じがする。

たぶん、正しさそのものが人を孤独にするわけではない。
けれど、正しさを選ぶ瞬間には、何かを選ばない瞬間も含まれている。
迎合しないこと。
空気に合わせて自分を曲げないこと。
その小さな選択が、静かに人との間に隙間を作る。

私はもともと、一人でいることが苦手なタイプではない。
一人で食事をするのも、旅行をするのも平気だ。むしろ気楽だと思うこともある。
だから「孤独が怖いから正しさを選ぶのをやめたい」とは思わない。

けれど同時に、私は一人で完結する人間でもない。
本当に苦しいとき、人に助けられてきた。
心のつながりがあることが、どれほど人を救うかも知っている。

では、なぜ正しさは、ときに人を孤独に見せるのだろう。
そして私は、そこまでして何を守りたいのだろう。

今日はそのことを、できるだけ静かに、正直に書いてみたい。

正しさは、ときに「見た目の合理性」と衝突する

社会の中で生きていると、正しいことと合理的に見えることが一致しない場面に出会う。

見ないふりをした方が楽なときがある。
あえて何も言わない方が、波風は立たない。
周囲に合わせておけば、余計な摩擦も生まれない。

その方が、生きやすいのかもしれない。

要領よく立ち回る人を見て、少しだけ羨ましく感じる瞬間がないわけではない。
正しさにこだわらなければ、もっと軽やかに生きられるのではないかと思うこともある。

けれど、そうした場面に立つたびに、心のどこかが静かに問いかけてくる。

本当にそれは、合理的な選択なのだろうか。

私たちが合理的だと思っているものの中には、
ただ「見た目の合理性」に過ぎないものもあるのかもしれない。

短い時間で見れば遠回りに思える選択が、
長い時間の中では、最も自然な帰結へとつながっていく——
そんなことも、人生には少なくないように思う。

正しさは、必ずしも生きやすさを保証しない。
ときに非合理にさえ見える。

遠回りに見える判断。
損をしているように感じる選択。
わざわざ難しい方を選んでいるように思えることもある。

それでも、自分の中で「違う」と感じたことをそのままにしてしまうと、外側ではなく、内側に小さな歪みが残る。

その歪みは目立たない。
誰にも気づかれない。

けれど、自分だけは知っている。

だから私は、正しさが必ず合理に結びつくと断言できるわけではない。
ただ、本質的に正しい選択は、長い時間の中でどこかへ静かにつながっていく——
私は、そうであってほしいと信じたい。

生きやすさを優先するのか。
それとも、自分の感覚に正直でいるのか。

👉「どう生きるか」という選択が現実にどんな影響を与えるのかについては、こちらでも考えています。

大げさな選択ではない。
日々の中に紛れてしまうほど、小さな判断の積み重ねだ。

そして、その小さな積み重ねが、ときに周囲とのあいだに静かな距離を生むことがある。

私が求めているのは、「堅苦しい正しさ」ではない

正しいことを大切にしたいと思っているが、だからといって、常に模範的でありたいわけではない。

信号のない場所なら道を渡ることもあるし、車がまったく来ていなければ赤信号を渡ることもある。
道にゴミを捨てることはしないが、落ちているゴミをいつも拾うわけでもない。

おそらく私は、「見た目に正しい人」になりたいわけではないのだと思う。

人から良く見える行動をとっていても、責任から逃げる。
自分にだけ都合のいい判断をする。
誰かが嫌な思いをすると分かっていながら、そのままにする。
困っている人がいても、見て見ぬふりをする。

もしそうであるなら、その正しさにはあまり意味がないように思う。

私が大切にしたいのは、行動の正確さではなく、自分をごまかさない姿勢の方だ。

👉私が「誠実に生きたい」と考えるようになった理由は、こちらに書いています。

外からどう見えるかよりも、
その選択を自分が引き受けられるかどうかの方が、私にとっては重要である。

形だけ整った正しさには、どこか息苦しさがある。
それを自分に課し続けてしまえば、やがて他人にも同じものを求めてしまうかもしれない。

けれど、私が求めている正しさは、もっと静かなものだ。

人を不必要に傷つけないこと。
不誠実にならないこと。
自分の内側で「違う」と感じたことから目をそらさないこと。

ただ、それだけでいいと思っている。

正しさとは、立派さを競うためのものではない。
誰かを裁くための基準でもない。

むしろそれは、自分がどんな人間でありたいのかを思い出すための、小さな感覚に近い。

だから私は、完璧に正しくあろうとは思わない。
ただ、自分を裏切るような選択だけはしたくないと思っている。

そして、その基準に従って生きようとすると、ときどき周囲とのあいだにわずかな距離が生まれることがある。

それは対立と呼ぶほどのものではない。
けれど確かに、同じ方向を向いていない感覚が残る。

正しさが人を孤独にするように見える瞬間は、もしかすると、こういうところから生まれるのかもしれない。

迎合すれば、孤独は避けられるのか

周囲に合わせて生きることは、決して悪いことではない。

場の空気を読むことは、ときに人間関係を円滑にする。
余計な摩擦を避けることにもつながる。
大人としての振る舞いと言える場面も多いだろう。

もし孤独だけを避けたいのなら、方法はそれほど難しくない。

少し意見を引っ込める。
違和感を覚えても、あえて口にしない。
本当は賛成できなくても、その場に合わせて頷く。

それだけで、人は集団の中にとどまり続けることができる。

けれど、その選択を重ねていくと、あるとき気づく。

周囲との距離ではなく、
自分自身との距離が少しずつ広がっていることに。

迎合は、孤独を遠ざける代わりに、静かに自分を遠ざけていく。

もちろん、すべてに抗う必要はない。
小さな違いにまでこだわっていたら、社会の中では生きにくくなる。

ただ、自分の内側で「それは違う」と感じた瞬間まで押し流してしまうと、心のどこかに説明のつかない感覚が残る。

それは後悔と呼ぶほど大きなものではない。
けれど確かに、自分の輪郭が少しだけ曖昧になる。

人は必ずしも、自分の意見を押し殺して生きているわけではないのかもしれない。

むしろ、自分の感覚を抑えていることにさえ気づかないまま、誰かと一緒にいる安心感の中に身を置いていることもあるのではないか——そんなふうに感じることがある。

一人ではない、という感覚は、人に大きな安らぎを与える。
それ自体は、とても自然なことだと思う。

ただ、その安心の中に長くとどまり続けるうちに、
自分が何を感じ、何を考えているのかが、少しずつ見えにくくなっていくことはないだろうか。

そしてあるとき、
「本当はどうしたいのか」
と自分に問いかけても、うまく言葉にならない。

そんな感覚を抱くことも、もしかするとあるのかもしれない。

正しさが人を孤独にするのではない。
迎合しないという選択が、結果として孤独に見えるだけなのかもしれない。

そしてその孤独は、周囲との距離というより、むしろ「自分との距離」の問題なのだと思う。
周りに人がいても、自分の感覚から離れてしまったとき、人は別の種類の孤独を抱える。

けれど考えているうちに、気づいたことがある。
私にとって本当に怖いのは、孤独ではない。
自分を裏切ることだ。

私は孤独が怖いのではない。自分を裏切ることの方が怖い。

私は、一人でいることそのものを怖いと思ったことはあまりない。

一人で食事をするのも平気だし、どこかへ出かけるのも苦ではない。
旅行も、一人の方が気楽だと感じる。

だから、孤独を避けるために周囲に合わせようと思ったことは、ほとんどない。

けれどそれは、誰の助けも必要としないという意味ではない。

本当に苦しいとき、私は人に支えられてきた。
どうしていいか分からなくなったとき、話を聞いてくれた人がいた。
大きな失敗をして深く落ち込んだとき、長い時間を共に過ごし、ただ言葉を交わすことで心を軽くしてくれた人たちもいた。

人とのつながりが、どれほど人を救うのかを、私は知っている。

孤独に耐えられることと、誰も必要としないことは違う。
人は、一人で立ちながら、誰かと生きているのだと思う。

それでもなお、自分を曲げながら誰かの中に居続けることには、どこか強い違和感がある。

周囲に受け入れられることよりも、
自分の内側で納得できなくなることの方が、私には怖い。

自分を裏切るというのは、大きな決断の場面だけで起きるものではない。

本当は違うと感じているのに、何も感じないふりをする。
小さな違和感よりも、その場の空気を優先する。
自分の感覚に静かに蓋をする。

その積み重ねの先で、もし自分が何を大切にしているのか分からなくなってしまったとしたら——
それは、とても静かで、けれど深い裏切りのように思える。

たとえ周囲に人がいたとしても、
本当の自分自身と離れてしまっているのなら、その距離の方がずっと遠い。

だから私は、周囲から見て孤独になる可能性があったとしても、自分の感覚から離れすぎない生き方を選びたい。

それは強さではなく、ただそうでありたいと願っているだけだ。

そしておそらく、その基準に従って生きようとする限り、完全に孤独になることはないのだとも感じている。

自分を偽らずに生きている人のもとには、同じ方向を向いた誰かが、静かに現れる。

多くを求めなくてもいい。
数が多くなくてもいい。

心のどこかで通じ合える存在がいれば、それで十分なのだと思う。

人の心に、良いひっかき傷が残るように生きたい

私は、立派な人になりたいわけではない。
誰かに評価される人生を送りたいわけでもない。

ただ、自分を裏切らずに生きていきたいと思っている。

その結果として、もし願いがあるとするなら——
自分の行為や言動が、誰かの心の中に小さな跡を残せていたらうれしい、ということだ。

それは大きな出来事である必要はない。

たとえば、道に迷っている人に声をかけたこと。
何気なく交わした言葉。
相手のことを思って選んだ、ほんの小さな行動。

もしかすると、相手はすぐに忘れてしまうかもしれない。
けれど、人の記憶の奥には、ときどき説明のつかない形で残り続けるものがある。

ふと思い出したときに、少しだけ心が温かくなる。
あのとき、あんな人がいたなと思い出す。

そんな痕跡のようなものを、私は「良いひっかき傷」と呼びたい。

それは意図して残すものというより、
自分を偽らずに生きようとした結果として、いろんな人の心に静かに残っていくものなのだと思う。

だから私は、特別なことをしようとは思わない。
ただ、そのときどきの自分が「こちらがいい」と感じる方を選んでいきたい。

人を不必要に傷つけないこと。
不誠実にならないこと。
自分の感覚から目をそらさないこと。

その積み重ねの先に、もし誰かの心に小さなしあわせの跡が残るのだとしたら、それで十分だ。

そしてきっと、人はそうした見えない痕跡に囲まれながら生きている。

これまで出会ってきた人たちの言葉や優しさに、知らないうちに支えられているように。
自分もまた、誰かの記憶の片隅に、わずかなしあわせの輪郭を残しているのかもしれない。

人生の終わりに、それを確かめることはできないだろう。
けれどもし振り返ったとき、物理的ではなく、精神的に誰かのしあわせに囲まれている感覚があったなら——

「ああ、いい人生だった」と思える気がする。

波乱万丈だったとしても、それでいい。
むしろ、その方が人の心に触れる瞬間は多いのかもしれない。

すべての物事が本質的に正しいところへ帰結するのかどうか、私にはまだ分からない。
だからこそ私は、それを確かめるように生きていきたい。

自分を裏切らずに生きること。
その結果として、人の心に良いひっかき傷が残るように生きること。

もしそんな人生を歩めたのなら、きっとそれは、私にとって納得のいく人生なのだと思う。

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